人は変われる・・・変わってる
- 2011-07-29
- 17:42
こんにちは。
本日は、『人は変われる・・・変わってる』というテーマにお付き合いください。
ぼくたち人間は、ともすると、「結局、自分は、こんな人間でしかないんだ」と決め付けたくなってしまいます。
それに、周囲の人に対しても、「あの人は、こういう人なんだから、しょうがない」なんて、思い込んだりもします。
これだと、まるで人は、固定された人格をそのまま持っているようになってしまいますよね。
でも違うんです。
ぼくら人間は、一分一秒変わり続けている。
そうして、この世に生を受けたときから、死にいたるまで、心地よい経験も不快な経験も織り交ぜながら、それらを総合させた体験を積みながら、着実に、一日、一時間、一分、一秒、成長を続けているんです。
でも、長い間うつ病を患っていたり、統合失調症に悩まされていたりすると、「そんなことは慰めに過ぎない、気休めの嘘だ!」なんて思ってしまうでしょうし、そのように伝えてくる人に対して恨みさへ持ちたくなってしまうかもしれません。
それでも、お伝えします。
そんなあなただとしても、本当に、真実として、成長を続けているんです。
それが証拠に、ぼくらの人生の一瞬一瞬に、全く同じ時はないのですから・・・・。
同じように思ってしまうかもしれない一瞬一瞬。でも、確かに違う。
同じようなことが繰り返されているように見えても、既に、昨日を、一時間前を、一分前を、一秒前を生きた体験が積み重なった後の今、この時、一瞬。
それらは、決して過去のどの一瞬とも同じにはなれません。
確かに違うとしかいえないんです。
学校に行けていようが、行けていなかろうが、
仕事に就けていようが、就けていなかろうが、
そんなことには関わりなく、
ぼくら一人ひとりが自分の人生を一分一秒生き、歩み続けることで、
すでに、成長を続けている足跡を残し続けているということになるのです。
実際、カウンセリングの実践を通して思うことは、
学校に通いえていない青少年が、
思春期を経て、青年前期を生き抜いていく中で、
自ずと、混沌から抜け出し、自己認識や世の中の見方について客観性を身につけていく姿を、幾つものケースで経験しています。
しかし、高卒、大卒・・・等々の半ば不確かな資格に拘りすぎるぼくたち大人が、そうした青少年たちの、心の成長の姿を知ることがないまま、そうした資格にだけ目を奪われているために、このような青少年たちは、職場を得られないまま、社会的な混沌に足をすくわれ続けています。
学校にだけ頼り、学校にだけ任せる教育、子育て、職業教育はもう止めましょうよ。
彼らの潜在能力を信じ、読み書きそろばん程度の基礎的な部分だけを学校に委ね、あとの人間教育は家庭や地域が、職業教育は企業自体がもっと主体的に、純粋な好奇心や向上心を耕し、家庭や地域の中で子育てをすることの醍醐味や仕事の面白さを一から教えてあげれば良いじゃぁないですか!
みんながみんな人任せにし過ぎ、責任を転嫁し過ぎていないでしょうか?
青少年だけでなく、中年期を過ぎようとしている私たち大人一人ひとりだって、全てが成長可能のプロセスを歩んでいます。
老いも若きも、男も女も、障害者も健常者も、「今日という共通の教材」を充分に味わいながら、使いながら、「真・善・美」を実現する社会を目指して、共に手と手を携えながら、共育ちをしている。
そうした意味で、変化を続けている、変わり続けているぼくら一人ひとりなんだということが信じられれば、
人生全て、鬼に金棒です。
今日、この瞬間から、ぼくたちと一緒に、変わり続け、成長をし続ける人間を楽しんで生きて行こうではありませんか。
二つの物差し
- 2011-07-26
- 19:44
こんばんは。そして、本当に久しぶりです。
改めて、ブログを更新してみようと思います。
今日の題は、“二つの物差し”です。
カウンセリングの中で、ぼくは、このような話しをさせてもらうことがあります。
一つ目の物差しは、誰でも知っている、世間的な物差しです。
一般常識的、社会的な物差しといっても良いでしょうか・・・・。
この物差しは、自分と周囲を、また周囲の人と人とを比べる、相対的な物差しといって良いように思います。
でも、この相対的な物差しこそが、ぼくたち人間の目を曇らせ、色眼鏡を色を濃くさせている張本人であることを忘れてはならない気がします。
百人百様、全ての人の色眼鏡が、全て自己中心的な「我(われ)」から発し、全ての色が違うはずなのに、その色眼鏡を通して見る価値観や思いが、確かなものであるかのように思い込んでしまう。
このことが、自分自身の判断をどれ程歪め、他人のへの評価をどれ程無責任なものにしているかも気付けないまま、『正しいこと』のように思い込み続けてしまう。・・・・・それが、ぼくたち人間の不幸の始まりであることも知らずに・・・・!。
そんな時、ぼくら人間の心にすでにある、もう一つの確かな物差しの存在に気付き、その確からしさ、真理性に触れることができれば、上記のような不幸から抜け出せます。
それは、太陽が、この地球上の全ての動植物や物質に対し、分け隔てなく注ぎ続け、育み続けてくれている大いなるエネルギーにも似た、絶対平等的な智慧の物差しです。
それが、キリスト教から与えられようが、スピリチュアリズムから与えられようが、イスラム教から与えられようが全く構いません。
ぼくは、そうした絶対平等的な智慧を、仏教やユング深層心理学から授かりつつ、日々の実践に生かさせてもらいたいと願っています。
クライアントさんお一人お一人には、それぞれに背負ってこられた人生あり、作り上げてきた価値観や心情があります。
そして、そうした個々の価値観や心情を、全て受け入れ認めてくれる智慧が、仏教にもユング心理学にも沢山詰まっています。
誰が良くて、誰が悪いなんていう確かな根拠は、何処にもない。
誰もが、この世に唯一の時分の人生をひたすら歩み続けているだけ。
急いで駆け上っていく人も居れば、ゆっくりの人も居る、
沢山の人と人との関わりを大切にしながら生きていく人も居れば、マイペースに一人二人の仲間との生活を大切にしながら、自分の生活を充実させていく人も居る。
表舞台で活躍する人も居れば、裏方に徹して、目立たず地道に人の役に立とうとする人も居る
それらの度合いも、ペースも、全てが一人ひとり違うことがまず認められるべきで、個々の必要に応じて、社会活動を営む上で部分的に周囲と合わせる必要があるというくらいで良いはずなのに、あまりにも現代の日本社会は、無理な一律をし居続けている。
・・・・このように思えてならないのです。このような憤りが抑えられないのです。そして、抑えなくて良いと思います。
“おかしいこと、「はおかしい」と本当は言わなければならないんじゃぁないの!?”
日々の実践の中で、二つ目の物差しの大切さを痛感しています。
一つ目の物差しは、二つ目の物差しのほんのほんの一部として最小限必要な時に働くくらいで良いはずなんです。
やっぱり 仏教が好きな小池です
- 2010-03-15
- 19:54
こんばんは。
久々の書き込みです。
これまでの我が侭を、どうかお許し下さい。
にもかかわらず、“けいすけ”さん、“まこと”さんにおかれましては、
私が、留守の間も、コメントを届け続けてくださり、本当にありがたく思います。
これからの書き込みは、ぼくの綺麗ごとのカウンセラーの部分ではなく、小池として、より本音に近い内容になるかもしれません。好き嫌いもあるかと思いますが、是非とも、懲りずに見守ってくださることを望みます。
本日のお題は、『やっぱり 仏教が好きな小池です』
やっぱり、カウンセラー小池は、このことを隠しておくことができません。
ホームページにも記してはありますが、
これまでの書き込みの中でも、この様なことをはっきりと言うと、『宗教嫌い(?)』の方々には、敬遠されるのではないかと思い、で切るだけ当たり障りのない、綺麗ごとのカウンセラーとしての書き込みであったことも、完全に否定することはできません。
ぼくの、カウンセリングにおいては、どうしても仏教の智慧や慈悲心というものを抜きにして、語ることができません。
昨日も、ある実践において、
「自尊心」という言葉が、テーマとしてすわりました。
自ら己自身を尊ぶ心のことです。
とは言うものの、私たち人間の浅墓な知恵による、それもまず「比較在りき」、「差別在りき」の色眼鏡同然の知恵による心では、到底心底からそう思えるような心境にたどり着くことが、著しく困難です。
でも、お釈迦様の教えや知恵、そしてお釈迦様がお示しくださった阿弥陀如来の知恵に浸りきり、委ねきることができると、自ずとそうした気持ちが湧き起こってきます。
自力的な獲得による心境ではなく、その自力を打ち破られ、仏の知恵を信ぜざるを得なくなったことにより、仏の世界から送り届けられる心境。
このような心境に浸らせていただける幸せを、今本当に、有り難く、有り難く思わせていただいている情況です。
このときのクライアントさんは、「どうしても、確かな自信を持つことができない」というお悩みを抱えた方でした。
そこで私が示させていただいた助言は、「『信じる』ということ自体、どのようなことだと思いますか?」という問いからのスタートでした。
「自分が格好よく居られる時だけ信じられて、格好悪くなってしまった途端に自信を失ってしまうような時、その自信を、本当に『自信』といえるでしょうか?」
「また、周囲の人に対しても、その人が思い通りで居てくれる時は信じられて、思い通りに居てくれなくなった途端に、信じられなくなるような時、それを『信じる』と、言うことができるのでしょうか?」
と言うことを、共に考え合ってみました。
そして、結論として、「こうした『信じ方』による『信じる』というのは、真の信じると言うこととは違うのではないか。」
「自分の格好の悪いところも含めて丸ごとの自分を信じられてこその『真の自信』であり、
人間としての影の部分も含めて相手を信じられてこその『信の信頼』ではないか、という点を深く確認しあうことができました。
こうしたことも、私に元々あった知恵ではありません。お釈迦様、阿弥陀様という仏様方の智慧を、慈悲を、深く信じることができているからこその助言です。いうなれば、仏様方からの借り物です。
でも、自分の自我意識でこねくり回した浅墓な正邪による知恵(これを浄土真宗では0点の知恵と言います)よりも、たとえ借り物であろうと、こんな愚かな自分でも救い摂ろうとして下さる阿弥陀様の智慧(これを同じく100点満点の知恵と言います)に委ねた方が、人間の幸せにとって、どれだけ確かなことか知れません。
私の一番の心の師、故・西光義敞先生が確立された、「仏教カウンセリング」の流れを汲む「真宗カウンセリング」は、正に、こうした疑いようのない本物の智慧(真理)に立脚した、不動のものであるような気がします。
人によっては、「仏教など時代遅れだ」、「葬式仏教に成り下がった仏教に、何ができるんだ」と、不信や不平を向けたくなる方もお在りだろうと思います。
でもそうした不の責任は、お釈迦様や阿弥陀様という仏様方にあるのではありません。そうした仏教を後々伝え続けてきた、人間のままのお坊様方や人々に責任があることなのです。
「自尊心」という言葉に近い言葉として、「天上天下(てんじょうてんげ) 唯我独尊(ゆいがどくそん)」というお釈迦様が伝えてくださった言葉があります。
ぼくたちの現代社会(娑婆世界・此岸(しがん))は、差別だらけ、比較だらけ。
その差別や、比較によって、自分自身や周囲の者同士が、傷つけ合い迷い合う。何一つとして、確かな物のないことを、正しいとか間違っているとか色眼鏡を通して決め付け思い込み・・・・。そんなことの繰り返しが、不幸が不幸を呼んでいるような気がしてなりません。
そうしたことについても、仏教は、天上天下において、どんな人でも命を授かっている物から、命を授かっていない物まで、全てが「唯我独尊」。
絶対平等の存在として、認められ、認め合って好いものであることを、教えてくれています。
ですから、このよに生まれた者全てが、欠かすことなく必要な存在であり、誰一人として、無用であったり劣った存在であるなどと決め付けられてはいけない存在であることを教えてくれているのです。
カウンセリングにおいては、この様な確かな人間観や、仏教からお借りした叡智によって裏づけされてこそ、不動の安心を実感していくことができるのだと思います。(イエス・キリストの叡智も同様だと思います)
ぼくたち人間は、ぼくたちの浅墓な知恵によって必要か必要でないかを判断する以前に、既に、仏の叡智によって必要不可欠な存在として認められているのです。
そのことに、もっと関心を示してもよい時期が訪れていると思いませんか?
どうかお許し下さい
- 2009-10-15
- 21:03
こんばんは。
本当に、久々の登場ですみません。
きっと、いくら謝罪しても、許してくださらない方も居られると思います。
それでも仕方がないと思っております。
しかし、その上で、言い訳を記させていただきますので、
お許しいただける方は、どうかお許しいただきご理解のほどよろしくお願いいたします。
ホームページにも記してあるように、
私は、今、長野県の高校カウンセラーもさせてもらっています。
そこに、6月の途中より、国の文部科学省の“ハートフル支援事業”という仕事が加わりました。
一般の高校カウンセリングの場合には、年間、一校に付き20時間程度の割り振りなのですが、
ハートフル支援事業の場合は、年間その該当高校(長野県では4校の内の1校)に、年間で270時間が割り当てられているため、週の内の火曜日の午後4時間と金曜日の午前4時間を担当することになりました。
その他、当カウンセリングルームでのカウンセリングに加え、
長野県上田市にある 私立さくら国際高等学校の高校カウンセリングと
県の総合教育センターの夜間電話相談員も勤めさせていただいているため、「貧乏暇なし」状態に近くなっております。
そこで、誠に申し訳ないのですが、ブログについては、余裕が生まれた時のみに登場させていただき、カウンセリングの実践に向けるエネルギーの充電のために、睡眠と休養を最優先にさせていただいております。
今後とも、過去の記事なども読んでいただき、コメントにて、ご意見を寄せていただけるとありがたいです。
また、訪れてくださる方々の間で、活発にコメント欄にて意見交換や支え合いをしていただけると、このブログが、さらに有効に活用されるのではないかと期待します。
誠に、勝手なことばかりを言って申し訳ありませんが、ご容赦とご理解のほどよろしくお願いいたします。
尚、当談話室のホームページからの予約問い合わせは、これまで同様、遠慮なくしていただきたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。
『 ふたつよいこと さてないものよ 』
- 2009-06-24
- 19:16
こんばんは。久しぶりです。
ここから、しばらく、以前書き込ませていただいた内容で、現時点でも、尚お伝えしたい内容を、改めて掲載したいと思います。
時には、加筆するかもしれませんが、ご了解ください。
「ふたつよいこと さてないものよ」
この言葉は、ぼくの好きな河合隼雄氏が、『こころの処方箋』というエッセイの中でも触れられていますし、講演などでも触れられている言葉です。
人は、好調な時には、どうしても好調さを保ちたくなるのだけれど、どうしても肉体と我欲をもっているため、疲労やストレスを溜めてしまう生き物でもあり、その好調を保ち続けることがとても困難なんですよね。
何か一つ、今日は好いことがあったぞと思う時があれば、必ずその次には間もなく、自分の思い通りにならないことがやってくる。そして、思い通りにならないとついつい苛々をためて、不調に移行していってしまいます。
でも、ここでミソなのが、「それが、自然なんだ」ということなんですよね。
不調が来るから悪いんじゃなくて、巡り来る不調も次の好調への足がかりとなり、不調を不調として誤魔化さず、ありのままに受け入れ、無理をせずに休養等を素直にとって次へ備えると、自然と好調の波がやってくる。・・・と、そういうことだと思います。
人間は、菩薩様やマリア様のように無償の愛を惜しみなく与え続け、その愛を持続させることはできないんですよね。
どうしても、自己愛的な、自分中心の愛に変化してしまう。少しの間は、真似事で「相手のため」と思ってやってみても、「その相手のため」自体が、自分の所属欲求や充足感を満たすためのものであったりする。
そういう中で、好調の波を維持するということは、「菩薩様のように・・・」と自分に理想だけを強い続けることになってしまい、どうしても、自己中心性を逃れられないぼくたち人間は、その理想と自分の現実との間に、ギャップを生じストレスを抱え込んでしまうのだと思います。
ですから、そう受け止め直し、「ふたつよいこと さてないものよ」に逆らわずに、自分の心の波(バイオリズム)を素直に感じながら、好・不調の両方の自分を、ありのままに受け入れることができたならば、それが一番好いことなんだろうな、と深く頷ける気がするんです。
仏教で言うところの「中庸的・中道的な生き方」、「平常心」なんていう心の状態も、フラットな「平」状態ではなく、好不調の波、バイオリズムの波に逆らわず揺れながらも、周期をより一日に近づけて、波長と振幅(波の長さと触れ幅(深さ))を小さくできていること、・・・なんじゃないかな、なんて思っています。



